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VOL.150 2008.1.26
長谷川榮作
「自分の目の前には、素晴らしい大自然が限りない知識を蔵して広がつてゐる。その素晴らしい自然の中に、今自分は生きて居る」
長谷川栄作(1890-1944)
明治23年、東京府浅草生まれ。土浦藩、勝太郎長男。7歳、那須に移住。12歳、品川に移る。13歳、象牙彫刻家・島村俊明門下の吉田芳明に起臥師事。雅号
・芳州。16歳、「乃木将軍農耕姿立像」。17歳、「河辺」勧業博覧会褒状。24歳、「夢」文部省美術展覧会入選、25歳、「乃木将軍及両親三座像」、「春よ永劫なれ」。27歳、栴檀社結成、「心を見つめて」、「引接」特選、「シェイクスピヤ像」。28歳、結婚、「あまい囁に酔える時」、「羽衣」、「地上に在る誇り」特選。29歳
、「ゆあみ」、「幸よ、人類の上にあれ」、御殿山に。30歳、「乙姫」、帝国美術院展覧会無鑑査
。32歳、帝展審査員、「男女像」、「母性禮賛」。33歳、日本美術展覧会審査員。35歳、「乃木神社木彫狛一対」。37歳、「石彫狛一対」、「華清池の楊貴妃に想を得たる試作」、著作「彫塑の手ほどき
」。43歳、「農人形銅像・田植・刈込・収穫」、満州国へ芸術使節。45歳、東邦彫塑院結成。47歳、岩崎家「釈迦如来・観世音菩薩・地蔵菩薩」、「のぼるもの」。他に
「原敬胸像」、「施楽」、「伊豆志乙女」、「華」、「女の顔」、「吉田松陰座像」、護国寺「大日如来」、「舞楽春庭華」、「幸運」、「伊藤博文立像」、「弁天」、「漁夫の首」など。53歳、伊東に静養。文展審査員、帝国美術院美術展覧会委員、国民美術協会評議員。
乃木大将歌集
想ひ出
「今更私などが、大将の人格に就いて言葉を費すことは、無意義の極であると考へます。それで肉親の伯父として接してゐた大将から受けた、最も強い印象を述べて、序に代へようと思ひます。
それは明治四十二年の秋であつたと記憶します。今から想へば私が十九歳、少年より青年に移る、所謂憂鬱時代でありました。或る日赤坂の邸を時候の見舞旁(かたがた)尋ねました。伯母(大将夫人)は、何かともてなして下さるのでした。そして私の気色の勝れぬのを見て、どうかしたのですかと問はれました。私は少し神経衰弱にかゝつてゐることなどを答へましたが、兎や角する中に、当時学習院の院長であつた伯父は、何か用事の都合で帰宅され、夕食を共にすることになりました。
伯母は、病気なら冷えてはよくないからとて、私に座蒲団をすゝめて下さいました。いつも食事の際、書生時代のものは、座蒲団など敷かぬことになつてゐたのですが、私は先刻伯母が注意して下さつたことではあり、食卓の私の座席の前にも、ちやんと座蒲団が置いてありますので、暢気にその上に坐りました。其夜は伯父伯母私の三人のみで、丁度私は伯父の隣に坐つたのです。
私が箸をとらうとしてゐると、伯父は私の座席を、平常とは異つた険しいまなざしで、じろじろ見てゐられましたが、やがて、『馬鹿ッ』と大喝され、『書生の身分で、蒲団を敷いて飯を喰ふ奴があるか・・・・』と鋭く叱責されました。すると伯母は、傍から取りなして、『榮さんは病気ださうですから、冷えては悪いと思ひますから、御許しになつて。』と言はれると、伯父は益々鋭く、『病気だ・・・・何に神経衰弱・・・・そんなことでぐづぐづしてゐるやうな奴は死んでしまへ・・・・そんな意気地の無い奴が、世の中の役に立つか。死ね、死ね。馬鹿者めが・・・・』
伯父の怒りは、実(げ)に三軍を叱咤するのも、斯くやと思はれて、牡獅子の咆哮するやうな恐しさでした。私は思はず座蒲団からすべつて、畳に両手をつき、不心得を謝したのです。
帰途、私の頭は不思議な力に、一転せられてゐました。神経衰弱のことなどは全く忘れてしまつてゐたのです。さうだ、自分の力がどれ丈けあるか、死ぬつもりで試して見よう、と云ふ考が油然と心の中に起つて、此の時から生死と云ふことを真剣に考へるやうになり、人生に対する観方がはつきりして来たやうに思ひました。そして総ての事は、死に直面した時の真面目さで向つてゆかねばならぬことを、始めて知つたのです。
これ以来、私はいつも心が弛みかけると、必ず生死の問題をすぐに真面目に考へることにしてをります。其処に始めて、有と無とを超越した心境を得、邪念なく仕事に携はることが出来るのです。今にして想へば、彼の時の伯父の一喝は、私の心に火を点じた、尊い一喝であつたことに思ひあたるのであります。
殊に社会の種々相を知るやうになつてからは、ありし日の伯父の言行の味ひを一層深く感ずるやうになり、殉情誠志のこもれるその詩歌などを読むことが、私の心を養ふ糧となるやうに思はれますので、これを書き蒐め、また私の意のまゝに章を分けて配列し、読誦してゐたのでした。今茲に、そのまゝを一冊として梓に上せることに致しました。
大正十五年仲秋
甥 榮作 誌
武士の せめ戦ひし
田原坂 松も老木に
なりにけるかな
いさをある 人ををしえの 親にして おほしたてなむ やまとなでしこ 明治天皇
朝日かげ むかしながらに 匂ふかな(らん) 豊浦の里の かりの宮居に
櫻よし 紅葉もそめて(またよし) 水清く(し) たがみよし野と なづけ初めけん
吉野山 秋のけしきを たづぬれば(は かしこくも)
白らくもならで そむるもみぢば(にしきなりけり)
明治天皇御直し (乃木大将の歌)
神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる
うつ志世を 神さりましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり
武士
(ものゝふ)は 玉も黄金も
なにかせむ いのちにかへて
名こそをしけれ
台湾総督を辞せられて閑居中、或る商人が、大将に利殖事業を説いて賛成を求めし
ところ、黙したるまゝ、この歌をしたゝめ、座を立つてしまはれたとのことであります。
大君の み楯とならん 身にしあれば きたへざらめや みがゝざらめや
根も幹も 枝ものこらず 朽はてし 楠のかをりの 高くもあるかな
いたづらに よしさかゆとも 楠の木の 薫りをいかで 世にのこすべき
賤が家に かしぐ煙の かしこくも 大御心に かゝりぬるかな
身は老いぬ よしつかるとも すべらぎの 大みめぐみに むくいざらめや
大君の へにこそ死なめ ものゝふは うきてふことの などかあるべき
いたつきは 我おこたりの とがなれば 大みめぐみに 何とこたへん
わするなよ 秋の紅葉に 春の花に 血潮ふみつゝ 進みし時を
風さむく 夕月さゆる 川づらに 雪かとみしは 梅の初花
春あさみ とふ人もなき 梅ぞのを 我もの顔に うぐひすのなく
ふるからに 消えゆくあとの きよげなる なにゝたとへむ 春のあわ雪
浪逆の 海も静けき 春の風 ゆきかふ舟の 真帆片帆白し
駒とめて しばしは我を 忘れけり あさ日に匂ふ 花の下かげ
遠くとも 花ある道を たどりなむ 人にまたるゝ 身にしあらねば
訓学習院生徒(春に寄す)
雨はれて 若葉すゞしき 木の間より さし出る月の 影のさやけさ
むれあそぶ 子等のしわざの 面白く たまの河原に ひと日暮しつ
多摩川に遠足
高砂の 島戍(まも)る身にも 秋は来ぬ はゝその森に 霜やおくらむ
台湾にて
矢さけびの たえしゆふべに たゆみなき 弓張月の 影ぞうれしき
埋木(うもれぎ)の 花さく身には あらねども 高麗もろこしの 春ぞ待たるゝ
近衛留守師団長たりし時の作
なれぬれば 夜ごとにひゞく 筒の音も かりねの夢に さはらざりけり
喰うて寝て 起きてたゝかへ 旅順攻め 敵休むとも 我はやすまじ
追ふものも 追はるゝものも 今ははや 腹もへりたり ねぶたくもあり
奉天会戦
ほとゝぎす おのがまにまに なく聲を こゝろごゝろに 人はきくなり
訓学習院生徒(夏に寄す)
しこ草の しげれる野辺に くれなゐの 色さやかなる 日本(やまと)なでしこ
勇ましき 弓張月に引かへて 影もさびしき 片われの月
時鳥 たれに聞けとて 夜もすがら 一寸(ちょっと)帰京せよと 鳴くぞかしまし
たらちねの 夢やすかれと いのるなり 心してふけ 那須の山風
那須に在りし母上を思ひ
忠孝の 道のはじめの 旅立は おのがつとめを 励む門口
従卒に与ふ
なす事も なくて那須野に すむ我は 茄子唐なすを 喰うて屁をこく
先日久々留守に任せ置き候節来訪の人あり鼻紙に
世の中になすべき事も多かるに こんなところで何をなすのか
右名記せず有之候依て再来を待居候
酒のみか 飯はちはいで 夜はねずに やぶかにさゝれ ひるねころぶよ
(蚤、蚊、蜂、蝿、鼠、薮蚊、蛭、蚋)
色白に ふつくり出来た おまんぢう アンと喰べたる 味のよきかな
戦さにや強いが
色気にや弱い そこでやつぱり 唯の人
乃木希典
巻首写真乃木大将胸像の解説
伯父が日露戦争から凱旋した年の夏、私も那須野の別墅へ一緒に行つて居た時、私は伯父の農装像を作りました。農装を選ばれたことにも、深い意味があると思ひますが、これが大層意に適つたものと見え、数年の後、もう少し大きくして再び創るやう命ぜられました。それで、その準備として、先づ伯父の顔貌の写生をすることにしました。
伯父は、日曜其他の余暇を見て、邸の方の用事を兼ね、帰邸する日を予め定められ、その都度私も写生に出掛けました。
それは四十五年の五月初旬から始めたのでした。時は恰も爽かな新緑の頃で、彼の赤坂の二階の応接間の窓から、柘榴の若芽を眺めながら、伯父と共に柏餅など味ひつゝ、私は一生懸命に写生をしたのを、まだ昨日のことの様に思ひ浮べることであります。
斯くして、もつと顔の習作も沢山作りたいと思つてゐながら、なかなか余暇の少い伯父のことではあり、都合のよい日が間隔的にしかないので、顔の写生は一つだけにして、あとは家に在って、全体の習作に意を注いでゐたのです。其後参邸して伯父に会ふごとに、それとなく肖像の事を尋ねられました。
それから、遂に明治聖帝の崩御に遭ひ、世は大正となり、丁度九月の十日の事でした。伯父が、かねて長府から上京を促してあつた、実弟の大館氏夫妻が、停車場に着く時刻が知れてゐましたので、私はそれを出迎へ、同道して赤坂の邸に行きました。
折柄正装姿の伯父は、玄関に佩剣の音を立てゝ帰られたのでした。私達は、二階の応接室で挨拶をしました。この時午後の陽は、西側の窓の日除に赤々と反射してゐましたが、服忌以来、髯にも髪にも刃を入れられず、銀線の如き髯に掩はれた伯父の顔に、その夕陽が輝いて、威風颯爽たる姿は、嘗て私の知らない程の威厳を備へ、其の荘重な気持は、実に室を壓する如く感ぜられたのです。実に老将軍として、これ程立派な姿が、他にあらうかと私は思ひました。
此の姿こそ、彫刻として永遠に伝ふべき姿であると考へながら、偉大な芸術に対した時の様な心持で、私は暫時恍惚として見まもつてゐました。伯父は、令弟夫妻にも、一別後の会話が済むと、やがて私に向つて、
榮作 ― 彫刻はどうした ― 己の生きてゐるうちには、とても出来まいのう ― どうぢや
―
斯う云はれたので、いや、そんなことはありませんと答へたのですが、其の時は余り気にも止めず、いつもながらの皮肉であらう、くらゐにしか考へなかつたのでしたが、其の言葉が三日後に至つて、始めて意味深いものであつたことを知りました。即ちそれは、伯父の殉死でした。私は如何ばかり制作の遅れたことを、心の裡で詫びたことでせう。
併し、其の後十五年を経た今日までに、幾つかの伯父の像を創りましたが、未だ完成致しましたと云って、霊前に報告する程、私の意に満ちたものが出来ないことを、申訳のないことゝ思つてゐます。
この様な事で、其の後創つたものよりも、此の写真の鋳銅は、私としては、伯父の面影を最もよく伝え得て居る様に考へ、今でも或る自信をもつてゐるものなのです。而も生前の伯父に接して写生した、唯一のものでもある所から、私に取つては、大切な作品の一つとなつてゐるのであります。(をはり)
」
帝展彫塑に就ての一考察
「帝展の彫塑に二つの傾向がある。絵画に日本画と洋画が、音楽や舞踊や演劇にも東西の二潮流があり、夫れが両様に異つた味を有しつゝ存在してゐると同じ意味で、彫塑も東西両様の味の相異を示しつゝ進んで来てゐる。
欧米の趣味が華やかで快活で表面的で強烈であるに反して、日本の趣味は、気品があり清楚であり優雅である。此はすべての方面に現れてゐる特質である様に思はれる。此れを美術の方面に当嵌めて考へた時に、決して材料や題材の相違から来ている問題ではなく、作者の精神現象から流れ出てゐる問題である事を認めて置かなくてはならない。
東洋的だの西洋的だのと云つてはゐるが、結局ほんとの日本人のものが建設された暁にはそんな言葉は不必要になる。すべての自然が両洋に於いて非常な差異があり、如何に西洋を崇拝したからと云つても黒漆の髪毛は鳶色にはならず、黄色の皮膚は白色にはならない。つまりいつ迄経つても日本人は矢張り日本人である。芸術も其処を忘れては嘘だ。要するに歌麿の線は日本のものであり、レオナルドの理智は西欧のものである。
出発点の違つてゐる両様の研究は何れが先に目的地に着くか。矢張り民族精神に基く伝統の上にしつかりと根を下して、其処からものを観、ものを考へ、物を極めて徐ろに出発し、他の様々なよい栄養分を吸収する事が最も安全な進み方ではないか。其方が決勝点に早く入れる様な気がするのである」
彫塑の手ほどき
序詞
「芸術の力で、歓喜に盈てる時代を創り出さうではないか
今や、科学は地上を全く征服しようとしてゐる しかし、試験管のなかで人間を孵化させる事が出来るやうにならうとも それは何処までも物質だ
まさか、微妙な人間の感情をまで薬品によつて調節するやうな学術が発見される筈はない
だから、霊魂の世界はあくまでも永遠である 想像をたくましくして思ひのまゝに造型しよう
そして、我々の時代の芸術の大殿堂を建設しようではないか
芸術に志す多くの人々よ 我々の力で 光榮ある時代を創造するために努力しよう
こゝに綴つた一篇も そのために役立てば幸である 私も、芸術の道に逍遥して やがて二十年のあひだ 一歩一歩と、静かなあゆみを続けてきた
芸術順禮の途にのぼろうとする人達よ その門出を祝ははう そして、一緒に行かうではないか 健かな若き人達よ 芸術の聖地は近づいた
私も、礎石の一つをしつかりと置くつもりだから 熱情にもえてゐる若人達よ その上に、すばらしく華やかな 彫塑芸術の大殿堂を、創造してくれ給へ
彫塑に志をむける人は、その感覚を洗練し、真剣に彫塑芸術に全力をあげていつたら必ず良い素質が発露して来る。熱情が熾烈であればあるだけ、なほ更ら理性を緊張させて冷静に基礎研究をする事が必要。何によらず基礎を築き上げると云ふ事は堅実を要する事で、華やかなものではありません。
物体に対する観方と、考へ方と、現はし方とを練習する。立体の面の凹凸から成って居る彫塑は、その構成を正確に見る練習とそれを造型する練習が研究の主要なもの。それと同時に最も大切な事は魂の鍛錬。
兎角近代人の精神は絵画的で、平面的で、軽薄になつて居りますが、彫塑に志す人々はねばり強く総てを立体的に感覚し、観察すること、そして瞑想的に魂を深めてゆく事を要します。それが立体の精神であり、彫塑芸術の特質を発揮する根本をなすもの。
技巧が如何に優れて居ても、そこに芸術の本体、即ち魂がなければそれは芸術品ではありません。併し初歩の芸術研究に於いては、その魂のぬけた形骸のやうなつまらぬものを、先づひと通りは習得しなければならないのですから、さう面白いものではありません。
彫塑芸術とは、美を立体として実在にする造型の技術の事。如何に観察が明敏であつても、思索が深遠であつても、此を造型し実在とせぬ以上は芸術といふ称号は与へられぬ。如何に鋭く美を感じ、如何に巧みに此を表現し得るか。造型に必要な要素を理解し、習得してはじめて個性に基く創造の美を発揮し得られる。
内容の優れて居る芸術には、くめどもつきぬ滋味があります。新鮮な泉の如き趣があります。どんなものから題材を選んだにしても、溌溂たる生命をもつて観者を魅了するものがあります。又夢の如き静的なものにしても、その底を流れる気品と幽遠な魂のさゝやきをきく事が出来るのです。それは恰も煙を噴かぬ火山の静止のやうに、脈々として内なる声を感じさせる力をもつもの。
力、気骨、品威、熱情等を総合した魂の複雑なはたらきに依つて製作欲が発動し、その制作本能の命ずるまゝに、自由自在に日頃訓練された頭脳や手が働くことで、こゝに初めて芸術品が出来上る。その手腕を技巧、これを働かせる魂を内容と称する。ですからこの魂の訓練は手腕の訓練よりもいつも一歩を先んじて居なければなりません。
此の内容を豊富にするには、魂を修養させねばなりません。魂の訓練、即ち頭脳の訓練について必要なことは、真面目な人生への求道者の心を以て、自然に直面し、そこに自己の人生観を奥深く探究し、自己に恵れた特質に基いて思想と趣味を洗練させ、これを制作の内容として盛り上げてゆく事。哲学的な内省を怠らず、民族的な伝統を通じて世界彫塑の潮流を観察することも、頭脳の肥料の一つ。芸術に携はるものの頭脳には、いつも現実以上の或る憧憬の世界を描いて、詩の噴水はたえず夢のやうに静寂に噴出してゐて欲しいものです。
自己の性癖と自然に現れたる形態との間に起る矛盾を感じ、此を深く考慮し思索し、そこに自己の観方を確立して、自己と自然との契合点を見出し、真の調和を知覚する必要があります。本当の芸術に生きやうとするものは、アカデミズムの冑をかなぐり捨てゝ、赤裸々な独自に立ちかへり、自己の魂の受話器を敏感にして、自然の神秘な魂の秘奥を極はめる鍛錬をつまねばならない。そこに芸術的生命がやどることになり、内容が充実することになり、又作家個々の天分が発揚されることになる。
彫塑芸術が人類のものである以上、人体を基礎として発達し、その美的表現を我々彫塑に携はつて居るものが完成させてゆくもの。人体のもつ美は、冥想的な深さ、豊麗な魅力、無邪気なる神聖さ等の種々な精神の現象。他の如何なる自然の美よりも直接に此を感じ、此を意識する事が出来るだけ、人類にとつては最も関係の深い美の要素。彫塑家は此の美を極はめ、此の美を分析して、更に此を組織し構成して、いままでの人間の常識によつて開拓せられざる所の種々相を象徴し、表現することが、彫塑美の価値を発展させる。人体、即ち裸体を写生し研究する。裸体は美の根源である。
人体を写実し、研究する以上は、其の構造についての解剖も一通りの事は知らねばなりません。ダビンチなどの芸術には一種の哲理的な深刻味があるのは、確に生きた解剖学のたまものであろうと思はれます。
真の芸術家は、その時代に支配せられず、来るべき時代の水先案内者であらねばならぬとすると、他の諸芸術よりも一番立体的な力と、量の厚重を多分に有する彫塑芸術は、荘厳、崇高、雄渾、高雅などゝ云ふ諸相を表現するに最も適した芸術であると思はれ、これに携はつてゐる人々によつて、東洋の誇るべき精神主義、人格主義を第一に叫ばねばならぬ時は来てゐると思ふのである。
だがこれは時代を超越し、展覧会を超越し、名誉を超越し、すべてを超越した真の精神主義者、人格主義者が出現せぬ限り、到底のぞまれない事かも知れない。けれどもいつ何処から、かう云ふ人格者が現れぬとも限らぬから私はその日の来るのを待つとしよう。こんな
事を云ふ私なども所謂凡夫で
、思ふだけで中々立派な創作が出来ない事を悲しく思つてゐる」
洋の東西でも、ヒトが自然の中の一自然物であることに変わりはありませんね。幸せの生き方に王道があるのはこのためです。人間がなす総ての行為は、幸せにとってプラスかマイナスか、プラスかよりプラスかのどちらかです。地球を守るというよりも、人間が滅びないようにする、幸せに栄える方法&技術は、実はシンプルなものです。ただ、実行出来るか出来ないか、それが生死を分ける。
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